《自己紹介》LA留学のわけ、前編
思った以上に長くなりそうなので、この記事は前編とします。
こんにちは。今回は改めまして、なぜ今わたしが学生としてカリフォルニア州、ロサンゼルスに住んでいるのかを紹介します。
【英語と触れた】
わたしが生まれる前から、両親が大の洋楽好きでした。ずっと自宅で70~00's を聴いていたので、2歳半のわたしは日本語ではない何かを話すようになりました。そこで3歳から12歳まで子供向け英会話教室に通いました。おかげで発音にはあまり困りません。高校でも英語を話す部活に入って、演劇やスピーチコンテストに出ていました。英語を話すことがそこまで抵抗があるようには思いませんでしたね。(今は違うけど!!!)
【日本の大学受験に疑問】
周りのクラスメイトが受験生になったころ、わたしも流れに乗るように予備校に通い、やらなければならないことをこなす毎日でした。全然楽しくなく、映画を観ているときと部活でミュージカルをやっているときだけ、生きている心地がしました。そうこうして1年半が経った頃、とある国公立大学のAO入試に落ちてから、目が覚めたというか、何でこんなことしてるんだろうって思ってしまって、勉強しなくなりました。高校3年の秋でした。
そこで偶然出会ったのが留学中の方々のブログ。わたしはそれを読むのに夢中でした。そこからアメリカの大学に進むことを考え始めました。
【両親にプレゼンをした】
一人娘なので、なかなか両親からの許しは得られませんでした。そこでわかりやすくするために資料を作って、両親に対してプレゼンしました。お金の面が一番説得が難しかったです。お金がいつどれくらいかかるのか、何をするつもりでいるのか、いつ卒業していつ働き始めるのかという、基本的な情報を粘り強く説得し、晴れて承諾を得ました。
【日本の専門学校に1年】
コミカレにトランスファーするための60単位を取るのと、国からの奨学金を借りるために、東京にある専門学校に約一年通いました。TOEFLは専門に入って1回目で規定スコアに達したので、そこまで苦しむことはありませんでした。わたしは中高が女子校で厳しい校則だったので、いろんなタイプのクラスメイトがいて新鮮でした。友達と一緒に勉強したり、バイトしたり、髪を染めたり、パーマかけてみたり。日本の大学生らしいこと(?)をしました。英語力は伸びなかったです。正直。現状維持、という感じでした。やることが楽だったからこそ、早くアメリカに行きたいと思っていました。
【提携校のコミカレ】
専門での約1年が終わり、2016年3月に渡米しました。
ハワイのコミカレ、サンディエゴにある2つのコミカレのうちわたしが選んだのは、海が見えるコミカレでした。この選択は間違っていなかったと思います。おかげで海に行くことが癒しにつながるとわかったからです。自分を癒す方法を知るのはものすごく大事だと思います。このコミカレは留学生に対し、英語力向上に力を入れていたのでTOEFLスコアの規定は達していたものの、2カ月語学学校に行きました。
【今すぐ辞めたいよ語学学校】
金曜日のクラスメイトと先生で校外でなにかイベントごとをすること以外、最高につまらなかったです。語学学校に何年もいる方々を尊敬できるほどに。今まで勉強してきたことの繰り返し。今すぐ辞めたいと何度思ったかわからないです。専門学校の規定なのでやめられませんでしたが。
ただ、いい友達といい先生に巡り合えたのは感謝。
【いよいよコミカレの授業】
このコミカレには2セメスター分いました。辛かったのは卒業直前のセメスターだけ。どうやってアメリカでsurviveするか少しずつ学んだ時期でした。交通手段がバスだったこの時期、変な人が多かったので、元ルームメイトがペッパースプレー(催涙スプレー?)をアマゾンで買ってくれたのを思い出します。未だに一回も使ってないけど。(笑)休みの時期になればいろんなところに一人でふらふら行きました。近くのショッピングモール、海、山、公園、教会、時間があればどこでも行きました。
恥ずかしながら、勉強という勉強をしたのは最後のセメスターだけ。わたしはこんな自分でいいのか?と思いながら過ごしていました。行きたかったUC schoolsに金銭的にも専門学校の縛り的にも行けないことがわかってから、目に見えてモチベーションが下がっていきました。
最後のセメスターのENGLのlitertureのクラスは鬼畜でしたが、教授に救われながらどうにかセーフ。文学の研究ってすごく難しいんですね。読解力が著しく低いので、つらかったです
そして風が吹くように、あっという間にそのまま卒業しました。チキフィレ(ファストフード店)でCongrats!!!!!って言われて頼んだシェイクが無料になったのを思い出します。素敵な卒業式だったな。
後編に続きます。(前置き長すぎる、ごめんなさい)